テーブルが並んでいるあたりだとかなり迷惑だから、ちょっとした広場になっているその宿の裏庭の、さらにその隅で、誰にも見られないようにこっそりと短剣を振るう。
意識する事は、逃げる事、逃げ切る事。
あ、ちょっと逃げ切るってうまいかも。逃げるために切るんだもんね、「私の逃げ切り、見てみてよ」とか誰かに啖呵きりたいって思っちゃったりね。
実力はダメダメだから、そんな機会は一生来ないだろうけど。
それに。
短剣を振るときは、必ず刃を水平に、剣の腹で叩くように意識する。一回、二回と振るたびに、普段は意識しないような、些細な空気の抵抗が剣速を鈍らすのがわかってくる。
けど、刃は返さない。
そう決めたのだから、今は鞘を取ってたってあんまり早くは振れないって覚えておく。そういうものだって。
逃げ切りなんて言ったって、私には魔物を切るだけの度胸なんてないから、実際には叩き逃げ。逃げ回ってるだけ。
あんまりかっこよくはないよね。
わかってるけど、少しでも動かないと不安だから。
その裏庭で、何度も何度も短剣を振った。
時折鼻歌とか歌ってみたり、大声出したら怯んで逃がしてくれないかなあとか。あのハムスターみたいに、歌ったらその時だけは待っててくれないかなあとか、漫然と、いろいろな事を考えながらね。
我ながら集中できてないなあって、思うけど。考え方を変えれば、一石二鳥ともいえるし。ほら、頭を使いながら体も動かしてる。なんかすごそうじゃない?
……微妙。
いいけどね。
踏み込んだり、逃げ回ってみたり、シャドウ逃げ回りなんて端からみたら踊ってるようにしか見えないかもしれないけど、私は本気。笑われたっていいんだ。だって、今はそうしてみようって思ってるんだから。
それに、私がちょっとおかしいくらい全然大した事ないんだよ。ここの常連さんたちのほうがよっぽど非常識なんだから。
不思議?
だって、ここはそういう場所。
この島で私が見つけた、ちょっとした癒しのスポット。
妖精の宿、なんだよ。
妖精の宿がどこにあるのかって聞かれても、実は私には答えられない。
ちょくちょく足を運ぶようになった今でも、理屈も仕組みも全然わかってはないのだけど、この島でいちいちそれを気にしてたら、キリがないよね。だから、そういうものだって覚えて欲しいんだけど、妖精のお宿はね、一言で言うと、どこにでもあるしどこにもない、みたい。
その場所を偶然見つけた人にはね、鈴が渡されるの。綺麗な鈴。もらう人によって形状とか音はマチマチみたいなんだけど、私がもらったのは妖精の羽のレリーフがついた手のひらサイズのちっちゃなハンドベル。
それを鳴らすとね、あら不思議、いつの間にか妖精のお宿についているんだよ。この島のどこからでも、いつでも、どこでも。
でも、心に余裕があるときじゃないとダメみたい。魔方陣を頭に思い浮かべる時と同じだよね。本当にピンチな時には移動できないんだ。だから、魔方陣に似ている仕組みなのかもね。
ベルを鳴らすと、見えてくるのは西洋風のちょっと豪華な建物。宿なんていうから、質素なのを想像するでしょ? でも、外から見た感じはすごいよ。鹿鳴館とかに出てくる洋館みたい。
一階はダイナーになっていて、頼めば妖精さんたちが思い思いの料理を持ってきてくれる。案外いろいろなものが揃っていて、お酒なんかも置いているから、船長さんたちもたまに利用しているみたいなんだ。ここで会った時は驚いたけどね。
二階はその名の通り宿になってる。ちゃんと個室だし、鍵も掛かるし、安心だよ。
で、今私はそこの裏庭にいるっていうわけ。すごいでしょ? パンくず食べたり美味しい草食べたりで、魔物から逃げ回ってひいひいしてる私が、そんな立派な宿屋の裏庭で、逃げる練習に精を出してるんだもん。ほんっとに、この島は不思議。
なんかやっと、ミステリーツアーらしい状況になったよね。
……私が置かれてる状況が、どうもそういうものじゃないってことくらいはわかってるんだから。ほんと、今更だけどね。
観光だったら、素敵なのにね。
ここの常連さんたちは、例外なく偽島を探検したり、偽島で暮らしたりしてる筋金入りの……こういうの、なんていうんだろうね? 玄人? かな。そういうの。右も左もわからない私なんかとは大違いで、自分の目的のために冒険をしている人たちなんだ。
魔物を倒すのにいちいち戸惑ったりしないし、みんな自分の実力に自信を持ってる。実際、オーラとかすごいよ。一緒にお酒飲む分には全然なのに、探索とか戦いの話になったら目つきが違うもん。
裏庭でこっそり練習する理由って、それもあるよね。
私みたいなのが練習してる所見られたら、恥ずかしいでしょ?
ちょっとね、逃げ切るとか、きっと的外れな事言ってるなあって私自身も思うもん。
でも、この宿の人たち私みたいなのを差別しないしね。
言われたこともあるよ。
「この島の全ての魔物から逃げ続けるなんて、無理だ」
ってね。
だからって、何もしないわけにはいかないじゃん。
これしかないんだから。
考えながら、走ったり転んだりしながら、短剣を振る。
走るときは危ないから、しっかり短剣を鞘に入れて。
何となく気がついてきたんだけど、切ると叩くって似てるようで全然違う。
叩く時、特に逃げるために叩く時に大事なことって、当てるのか、当てないのか、当たるのか、当たらないのか、それをしっかり見極めること。
振りきるつもりで動こうとして、もし魔物に短剣が当たっちゃったら、その後の動きがついてこない。逆に、当たったなら当たったで、ちゃんと短剣を握り締めないと、手がしびれて大変なことになっちゃう。
それから、意表をつくことも大事。相手の前で短剣を振るだけでも、ちょっと腰が引けちゃうはず。……引けちゃうはず、なんだけど。……引けちゃって欲しいなあ。
じゃないと逃げる隙なんて、ないじゃん。
足元に積もってる雪とか、蹴ってみてもいいかもね。
つめた! ってなったらラッキーだし。
とにかく、その時に私に出来ること、色々考えなくちゃね。
「あら、ユウちゃん」
不意に声をかけれて、走っていた足が止まった。……んだけど。
足元に薄く積もった雪が靴底をツルっと。
摩擦ゼロって感じ。
もう片方の足を咄嗟に踏み出して、垂直に地面に降ろす、んで、手をばたつかせてバランス取りつつ、腰を落として重心安定。
「よ!」
思わず声を出してから、鞘つきの短剣を地面に突き立てた。
おおおおお! ……転ばなかった。
すごい、ちょっと進歩したかも。
魔物の前で転んじゃったら大惨事だからね。たってられるってすごく大事。
「見てわかりません?」
声をかけてくれたその人に、ちょっと胸を張ってみせる。
突き立てていた短剣が、雪に取られて盛大に滑って。
体重を乗せていた私は、結局、盛大に転んでしまった。
うぅ、恥ずかしい。死にたい。
……痛い。
「全然、わからない」
だよね。
その人、ティアさんは苦笑すると、手を差し出してくれた。その手にすがって立ち上がって、改めて「こんにちは」って挨拶をする。
ティアさんは、この妖精の宿の常連さんの一人で、他の冒険者の人たちから『女将さん』って呼ばれて親しまれてる。何で女将さんなのか、実は全然聞いたことがないんだけど、言われてみればそういう雰囲気があるような気がして、何となく納得してた。
綺麗な金髪をポニーテールにしてて、たまに見境なく食べ歩いたり、お酒に酔っ払ったりするけど、話すと結構周りの事を見てる、お姉さんって感じ。落ち着いてるしね。私、何度相談に乗ってもらったかな。身長は私よりちょっと小さいくらいなんだけど、なんだろ、私のほうがよっぽど小さい気がしてくるんだよね。さっきもそうだけど、いっつも見上げてる。そんな感じがする。
ロングスカートのエプロンドレスなんて格好だから、そのまま立ってるだけなら女将さんって言うよりまるで看板娘って感じ。
不思議の国のアリスが大人になったら、こんな感じの大人になるんじゃないかなあ。
ティアさんほど奇抜にはならないかなあ。……でも、アリスもあんな経験してるし……って、今のなし。今のなし。
そのティアさんは、いつになくまじめな顔をして、私に椅子に座るように促した。
なんだろ? って思ったけど、ティアさんがまじめな顔をする時って、決まって誰かを心配してる時なんだよね。短い付き合いだけど、そんな気がする。
だからきっと、さっきみたいな練習じゃいけないとか、遊びじゃないのよとか、そういうことを言われるんだと思った。
言われたら、その通りだから。
私の精一杯なんて、ここの人達からしたら全然なんだってわかってるから。
ちょっと、聞きたくない。
そんな私の気持ちを知ってるのか、知らないのか、ティアさんはちょっと生唾を飲み込んで、意を決したように口を開いた。
「ユウちゃん、ウチでアルバイトしてみない?」
……あれ?
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